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平治の乱にて源氏の棟梁義朝を倒し、絶対的な権力を握った清盛は宋(中国)との貿易を盛んにすべく
大和田泊(神戸市兵庫区)に目をつけ数年にわたって風浪を防ぐための工事や、大型の船が碇泊
できる施設の建築を行いました。
五十一歳で出家した清盛は、福原(現在の神戸市兵庫区にある湊川小学校あたり)に別荘(雪見御所)を構え、日栄貿易を盛んに進め自領の経営を積極的に行う中で、交通や貿易など利便性に富んだ福原を国の拠点にしようと考えます。
福原遷都は当初、高倉上皇や平家一門からの反対もありましたが、それを押し切って1180年6月に京から福原に都が
遷りました(安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇らが行幸)。実に、794年の平安遷都以来386年ぶりの遷都となりました。しかし、その遷都も長くは続きませんでした。源氏の相次ぐ挙兵に対応するため、
防備が整っていない福原を離れ再び京に戻ることとしたのです。福原への遷都は僅か半年間でした。
京に戻った清盛は源氏ほか各地の反乱が勢いを増す中で病を発し1181年3月に64歳でその生涯を閉じました。
そして清盛の死から四年後、栄華を誇った平氏も壇ノ浦に滅亡するのです。
もし清盛が福原に本格的な都市を築き、平氏が政権をそのまま維持できていたならば、神戸は雅な街に
なっていたのかもしれまん。